『 思い出のマーニー 』再読?再々読?・再々再々読?ジブリによる映画化で、この夏読み返そうと思っていた作品。
新訳も出ているようだが、また松野訳を選んだ。
夏が終わる前に読了できるのか、ハラハラしていたが、何とか間に合った。(わたしは読むのが遅い)
何度読んでも胸の奥がきゅ〜んとなる。
「マーニー」を初めて読んだのは10年ほど前のこと。岩波少年文庫の上下巻。
当時この作品が大好きで、ブックトークの中のメイン本として何度も使っていた。
少年文庫では、「対象年齢は小学5・6年以上」とされていたので、高学年から中学生に紹介していたけれど...。
今回特装版で読み返してみると、YA世代はもちろん大人まで、否、大人の方がむしろ心に響くのではないかと、改めて思った。
物語の主人公アンナは、他者と自分を「内側の人・外側の人」という感覚で位置づけていた。自分以外のほかの人たちは、みんな、「内側の人」。 なにか、目に見えない魔法の輪の内側に居て、自分は、その輪の外側にいると感じて過ごしていた。そんな考えが影響してか、アンナは喘息の発作を起こして登校できなくなる。まわりの大人たちは心配して、ノーフォークという自然豊かな町で療養させることにした。
アンナはそこで、マーニーという少女に出会う。二人は様々な体験を通して、心かよわせ、次第に、アンナは自分が引いた線の外側から脱出していくようになる。物語の終盤、アンナの出生が明らかになっていく場面での老婦人の台詞は、全ての人に伝えたい言葉。「ふしぎなことだけれど、愛されるということが、わたしたちが成長していくのを助けてくれる大切な条件の一つなんですよ・・・」
親子や兄弟だから分かりあえないことがたくさんある。他人ならば許せること、理解できることが、肉親であるがゆえに、ままならない。その逆の場合もある。他人同士が互いを深読みし過ぎて、傷つけ合う。どちらにしても、人は人と関わり合いながら生きていくもの。気持ちのすれ違いから生まれる悲しみや憎しみを消してくれるものは、愛されたということ、愛したということ、に気づくということではないだろうか。アンナはマーニーの正体を知った時、きっとそう感じたであろう。
今年5月に刊行された特装版には少年文庫にはなかった、「作者あとがきにかえて」が掲載されている。作者ジョーン・G・ロビンソンさんの長女の文を、訳者松野正子さんの長女が訳している。彼女達は、それぞれの母が抱いていたこの物語に対する思いを大切に受けとめていた。これから先も多くの人に読み継がれてほしいという深い願いがそこにはあった。
河合隼雄さのん分析?解説?は無い方が良いと思ったのは、わたしだけ?
(ご自分の著書だけにとどめてほしかった)
ペギー・フォートナムさんの挿絵にも親しんでいたので、ジブリの映画は観ないだろう。(映画化のおかげで原作を読んでもらえるのは嬉しい!)
カーリルで開く カーリルで開くカーリルで開く明日は始業式。みんなに会える!
わたしは大人になって、「
思い出のマーニー 」を読んだ。思春期に出会えなかった事が悔やまれる。
図書館まで静かに足を運ぶ生徒にも、軽やかな足取りでやって来る生徒にも、手渡したい本がたくさんある。
わたしは図書館に
いつもいる助けになる人でありたい。
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